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小津安二郎
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[Yasujiro Ozu (1903〜1963) ] |
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履歴 1923年叔父のつてで撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社。3年後には大久保 忠素の助監督となる。翌1927年時代劇『懺悔の刃』で監督デビューを果たす。1932年に監督した『生まれてはみたけれど』はキネマ旬報ベストテンで第1位に選出される。その後、軍報道部映画班として南方へ従軍、この地で数多くのハリウッド映画を見る。1945年終戦をシンガポールで迎え捕虜生活の後、翌年帰国。戦後は脚本家・野田高梧と組み、神奈川県茅ヶ崎市の旅館・茅ヶ崎館 で脚本を執筆し、『晩春』、『麦秋』、『東京物語』といった作品を次々に発表。中流家庭を舞台に親子 の関係や人生の機微を描く。 1958年『東京物語』がロンドン国際映画祭でサザーランド賞を受賞したのを機に、海外でも注目 を浴びるようになる。同年には紫綬褒章、翌1959年には芸術院賞を受賞し、1962年に映画人として初の芸術 院会員となる。世界レベルで評価が高まる中癌に冒され、1963年12月12日、60歳の誕生日に逝去。 晩年を過ごした北鎌倉の円覚寺の墓に眠る。 その墓には「無」と刻まれている。 死後もその評価は高まる一方で、日本の監督は勿論、『東京画』を撮ったヴィム・ヴェンダース、ジム・ ジャームッシュ、アキ・カウリスマキ、ホウ・シャオシェン、ペドロ・コスタ、アッバス・キアロスタミ、マノエル・デ・オリヴェイラをはじめとし世界の監督たちにも大きな 影響を与え続けている。
キネマ旬報ベストテンで第1位を取った回数が最も多い監督であり、世界的にも評価が高く、各国の映画作家たちが敬愛し続け、今も多くの若い監督までにも影響を与えている。しかし黒澤明や溝口健二のように早くから大きな評価を下されていたわけではなく、じわじわとゆっくりと評価されるようになった。今では世界的な日本の映画監督の3名として批評家や映画監督などから名を上げられるほどである。 小津映画とは様式美に達した完璧なスタイルといわれる。彼ほど自分のスタイルにわがままにこだわった監督もいないだろう。 小津としてよくいわれるのは、ローアングルのカメラ・ポジションに、レンズは決まって標準の50ミリをしようしているということである。そしてドリーやパンなどのカメラの移動もできるだけ排除するようになっている。また、語る物語自体も中期から後期にかけて大きく変わらないものとなっている。 こうした一見でも彼の映画への個性がみてとれる。これほどまでに個性を持った監督はいないといっていい。あまりにそれらを一貫している為、後期の作品は、興味を持って見ていない人、もしくは現代ハリウッドに多い表面だけの物語映画に見慣れてしまった人にはどれもが同じ作品に見えてしまうほどだろう。 なぜそれほどまでに、という批判に彼はこう答えたらしい。 「豆腐屋にビーフステーキを作れと言っても出来るものじゃない。がんもどきぐらいなら作れるかもしれないが、それが精一杯だ」と。 しかし、彼は始めからそういった形式を持って撮影していたわけではない。少しずつ自分を見つめて、当時では一番ハリウッド映画に触れていただろうといわれるほど喜劇や活劇を好み学び、それらに惹かれもしていました。だからこそ、あまり知られてはいないが、初期には『落第はしたけれど』のようなスラップスティック・コメディの傑作を沢山撮っているし、『非常線の女』のようなハリウッド的な犯罪アクション色のある素晴らしい作品も残している。 ここで小津監督のその特異性について書いていきたい。誰もが知っている作品ではあるし、多く取り上げられてもいるが、やはりここでも『東京物語』を例に述べてゆく。もちろん全ての作品に見所はあり、記述するべきなのだけれど、それでは書くことが多くなりすぎてしまうので代表的なものだけを書き連ねていきたい。『東京物語』は有名であるということもあるし、代表作とされるからには語るべき部が多い。まずは前述もした徹底したローアングルと固定カメラ。これらは日本的ともいわれるその大きな部分を占めている。畳に座り込むというのが当たり前となっている日本人独特の視線の高さである。海外の批評家などからは子供の目線を表しているとも称されている。その不自然さ、奇妙なまでの安定感が、人間の不安定さ、複雑さを不思議なまでに浮き立たせてもいる。 そしてこれも彼の特徴の一つ、交わらない目線である。これは一番問題とされる部分でもある。 それらだけではなく描き方も一貫していて美しい。『東京物語』の冒頭付近の尾道の家で笠智衆と東山千栄子が佇むカットがあり、ラスト近くに同アングルのカットがある。しかしそこには東山千栄子がいない。亡くなってしまったからだ。それでも笠智衆一人に適したアングル、サイズではなく2人がいたときと同じそれで描く。そうしたことによってその不在性や孤独、普遍的な世界を一層強めている。このような描き方を小津安二郎の生誕100周年の企画、国際シンポジウム 小津安二郎で吉田喜重監督が「反復とずれ」と言って表現していました。「反復とずれ」これはとても素晴らしい言い方である。「反復とずれ」によりそれら一つで成り立っていたカットは時間の中でも違った広がりをみせてゆく。こういった文法は小津の作品だけでなく、他の方の多くの作品でも見て取ることができる。しかし、小津ほど巧く使用する作品はなかなか見ることはできない。又、2人が鎌倉に旅行に行ったときバックショットで寄り添った2人が映される。これも小津独特の表現である。人が向かい合わず寄り添って歩く、立つ。交差しない目線といい、彼は人と人が向き合うことを避けているようにも思えるほどである。 物語にも一貫性が表出されている。彼は多く家族をテーマとして捉え続けていた。『東京物語』では血縁家族そのものだけではなく、原節子が演じる息子の嫁、所謂他人こそを優しさを表に出す一見深い存在として描きながら、その他人性も所々に埋めてゆく。 そして演技に関しても、科白に関しても徹底したもの持っていた。自分の言ったように演じてもらい、科白も違和を感じるほど凝り固まったものである。しかしそれが映画という創りもの的空間をより強め、彼の貫かれた形式と重なったとき、なんとも言えない世界観となる。 それと忘れてはならないのは笠智衆という一人の俳優と、撮影の厚田雄春の存在である。詳しく述べるつもりはないが、笠智衆とは小津の生写しのようなもので、彼がいなくては小津作品とは呼べないほどの空気を放っている。もちろん彼の演技も晩年まで細かく厳しく指導をしていたという話も有名ではあるが、彼でなければいけないものが溢れている。彼の独特の雰囲気と台詞まわしをできるもの、似合うものなどは存在しない。また中期からずっと小津の撮影監督をしていた厚田雄春は小津のその撮影へのこだわりを受け止め、理解してカメラを低くすることに徹底した人である。彼も小津を語る上で忘れてはならない人の一人である。 これだけ多くを貫き通して描くからには、彼の中にはこだわりがあり考えがあってのことである。しかし彼の亡き今その真相を知る者はいないけれど。興味がある方は蓮實重彦さんの著書「監督 小津安二郎」を読んでいただきたい。小津について書かれた書籍は世界各国で数多く出されているけれど、一番良く分析されている書物とされている。ともて面白く内容の濃い書物である。現代の映画監督や批評家のほとんどが読んでいるのではないだろうか。その内容に同意するしないは別として、それほど重要な本ともされている。 小津安二郎とは、あまりにも形式的なだけに文法的な表現や記号論的なものが似合うとされるかもしれないが、それは批評上で便宜的なだけであって、そういった分析をされるからといって映画自体が無機質なわけではない。そこにある時間はもちろん観たままの創られた時間であるものの、有機的である。人間の空気を感じ捉えることのできる有意義な時間が提示されている。 ローアングルの固定カメラ、交わらない目線、家族という物語。これらを使用し描いた作品は、意識してもしなくとも小津的とも呼ばれるほど映画界に浸透している。つまりは彼はそれほど個性的な監督であり、くっきりと軌跡を残したといえる。 また彼の作品を日本的と言う方も多い。もちろん映されているのは日本の家族や人、街などであるわけだけれど、それらは最も普遍的なものである。日本的というよりは世界的なものである。映画とは世界共通言語であって、彼の作品はそれに当て嵌まるといえる。 映画というものに少しでも興味がある方、諸芸術に興味がある方、また映画に何も求めていない方も、彼の世界に触れ普遍的な時間を過ごしてみてはいかがだろうか。退屈と感じる方も多くいるかもしれない。人によっては地味という言葉で片付けられてしまうかもしれない。それでもきっと気がつかないところであなたの人生が満たされているだろう。そんな時間がそこには存在する。そしてそこにこそ生きた大切な時間が隠されているのではないだろうか。見るほど味わい深くなり、優しく心に染みわたる、そういった映画である。
小津安二郎 全作品 1927年 懺悔の刃 全54作品 |
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